昭和41年07月18日 朝の御理解



 四神様は、大海にはクジラが住もうがと。大海にはクジラが住む。お互い一つ、クジラが住むようなおかげと信心をさしてもらいたい。確かに、浅いところに大きな魚を求めるような信心ではつまらん。大きな魚を求めるならやはり、深い信心をさしてもらわないけん。お互いが頂いておるおかげを丁度、浅いところの住んでおる魚を頂いておるような程度の事じゃなかろうか。
 深い信心さしてもらって、クジラが住むような、クジラのような大きなおかげを頂かなければならんと思う。人の真似の出来んような修行でもさしてもらおうと。神様に一生懸命お願いをしたからと言うて、私は大きなおかげを受けられるとは思われない。ね。どういう信心をさしていただいたら、あの、大きなおかげが受けられるかと。そこで一つ、昨夜の御理解をもういっぺんここに頂いてみたいと思う。
 昨夜の御理解は、あの、そういう、深いとか浅いとかいう意味ではなかったけれど、それをやはり、深い信心とはこういう信心だなと、分からしてもらい。昨日、竹内先生達ご夫婦で参ってみえてから、和教さんに新聞の切抜きを持ってきてやってござる、というのは、あの、高校野球の選手のおかげを頂いております。その事が書いてございますですね。今度の甲子園ですか、あちらに出場する、まあ学校の選手達をずっと、こう表した、切抜きだったんです。
 それで、和教さんの写真が、まあ載ってしまった。和教さんの事が書いてあるんです。まあ言うならその、他の誰よりも、えいごつまあ上手というのではない。和教くんのことをあちらがよく知らんからとか知りませんけれど、上手じゃないけれども竹内という選手は非常にチャンスに強い男だと。ね。そういうことが書いてあるんです。まあ言うならば、非常に運のいい選手だと、いつも。なかなかその、いつもタイミングがいいんだと、いう意味じゃないかとこう思うのですね。
 それがその、皆が気が付くぐらい、しかも野球をを評する人がそれを例えるのにいつもチャンスに恵まれておるというわけなんですね。竹内という選手はチャンスに強い男だということが書いてある。今、テレビでも今、源義経があっております。昨夜も、御祈念前にもちょっと見せていただいたんですけれども、丁度、群須与一の扇の的を中心にした時代劇なんですね。
 選ばれて、波波に漂う、的をいれと言うんですからこんなに至難な事はない。難しい。けれども、他にそれだけの弓矢の名人と言うのはいない。大将の命令でいよいよ、扇の的を目当てに打つところ、そしてあれが命中しますとね、あの、何々申しておる敵も見方も、もう感心するというところなんです。それこそかたづをのんで、敵も見方も見守っておる中でそういう一つの離れ業と言うかね、もちろん、もし当たらなかったら心に大きな決心をしてからまあ、のことでしょう。
 日頃の念づるまぁその神、もろもろの神を念じながら扇の的を射止めさして下さいというその、祈りに願いをいたしましてから、もう、射わけですね。何回矢を弓の矢をつられましても、もう、波にただようております的でございますからなかなかその的が定まりません。そこにその、まあ一瞬ではあるけれども、その波が止まったような、的が定まったようなその瞬間をいわゆるチャンスを頂けたんです。ね。
 そして、あの、敵も見方もほめそやすような、いわゆる源氏の名誉の為に、群須与一そういう物語が今に残っている。成るほど、その、そういう事を思わして頂く時です、ずいぶん、ぜんぜん弓矢の心得がない者がです、どんなに南無八幡を祈ったところでです、私は命中しないと思うですね。どんなにチャンスに強い野球の選手だと言うても、日頃が野球の稽古もなんもしない。
 私どものように野球の、その一つのルールすら知らないような者にです、どうぞホームランを打たせてくださいと言うて、闇雲にお願いしたってですよ、ホームラン打てるはずがないです。そうでしょうが。でもここんところをひとつよくわからなければいけんと思う。ここんところを今日私は、クジラの住むようなおかげを頂く為にはです、ね、人がたまがるような、びっくりするような、それこそ、敵も見方も認めるような、より信心がある者でもない者でもなるほどと合点がいくようなおかげを頂く為にです。
 いかに日頃の信心の稽古が大事であるかということです。ですから、参っております、拝んでおりますと言うて稽古をしなかったら駄目です。参る稽古だけじゃいかん。拝む稽古だけじゃいかん。信心の稽古でなかならければ。ね。そういう例えば稽古をさして頂いてです、それこそクジラに、大海にはクジラが住もうがと、大海のような信心をしろと。竹の筒にはボウブラがわく竹の筒に水が溜まったような信心では駄目だ。大海のような信心をしろと。大海にはクジラが住もうがと。
 黙ってその受けていくというか、成り行きを大事にしていくというか。どういう汚い物がどういう物が大海に流れこんできたからというてこんな汚い物を流しこんどって、言うて、その大海が顔色一つ変えないようにね、黙って受けいれるだけのそういう稽古なんです。日々。皆の稽古じゃないですけれどもです、ね、私どもが毎日毎日、その稽古をさして頂いて、毎日毎日それに、結果が繋がっていくというようなことに、なかなか稽古ですからひとつの的なら的の上にも的がそれる事もあろう。ね。
 だんだん的に近づかして頂く。神様のおかげというのは絶対のもの。と、こちらの技は一つなのだ。ね。おかげの方は絶対な物なんですから、絶対のおかげを頂く為に、私どもも百発百中もう、射ぬかれるだけの稽古をさして頂かなきゃいけんのである。その稽古をせずに、どうぞ、あの弓を射ぬかさして下さい。ね。野球の稽古もしない者が、今日はどうぞ私の顔を立たせて下さい。どうぞ私にホームラン打たせてください。というような願いをお互いしているようなことはなかろうか。
 なるほど浅い信心でです、ね、ただ拝むだけでも、御用するだけでも、ね、参ってくるだけでもおかげを頂けれるというおかげは私は浅いおかげだと思う。いわゆる雑魚的なおかげだと思う。浅いところには雑魚位のものしか住みゃあしません。ね。小さい雑魚のような魚しか住みゃあしません。そこんところを、本気でお互い分からしてもらって、常日頃にしっかり信心の稽古をさして頂いて、ね、
 いよいよここぞというときには、それも神様の特別の働きというおかげを頂くためには、そういう日頃の信心が身に付いておかなければならん。ね。ホームランかっ飛ばすような、例えばおかげを頂くためには、ね、常日頃からその、稽古がなされとかなければならん。そこに願い、そこに祈りがです、成就する。神様の働きと私どもの一心とが、ね、一つになっていただけれるようなおかげです。
 私は深い信心だというふうに今日は聞いてもらったんですね。深い信心というのは他にもいろいろございましょう。ね。あの人なかなかお話聞きよって深いと。あの人なんか浅はかだと、人間が。言わっしゃることは浅はかなばっかり。ほんに目先の事だけ。というように、お互いがその目先のおかげを受けてもです、ね。
 ほんとに深遠な神様の思いが成就して行くというようなおかげを頂く為にです、本気で信心の稽古をしなければいけない。ね。そんな大海のような心の状態。皆が稽古をさして頂くようなです。ね。うまずたゆまずの稽古がなされて初めておかげを頂ける。深い信心というようにもあり、またクジラも住めるようなおかげも頂けれるということが言えるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。